今年の有報、人的資本に何を書く? ─ 新ルール3つを読み解く
2026-03-22
2026年2月20日施行 | 義務化3項目 | 可視化指針改訂版 | 女性活躍推進法改正
新たに義務化される開示項目
開示府令改正(2026年3月期〜)
1. 2026年3月期、何が変わるのか
2026年3月期は、有価証券報告書の人的資本開示にとって転換点となる。**改正開示府令(2026年2月20日施行)・人的資本可視化指針改訂版(2026年3月23日公表)・女性活躍推進法改正(2026年4月施行)**の3つの法改正が重なり、開示の義務範囲・構造・対象企業が一斉に拡大する。
2023年3月期から始まった人的資本開示の第一世代は、「サステナビリティに関する考え方及び取組」欄への記載が求められてきた。しかし開示内容のばらつきが大きく、投資家から「比較可能性が低い」「定量データが不十分」という批判が相次いだ。2026年3月期の一連の改正は、こうした課題への包括的な対応として位置づけられている。
有報 人的資本開示の変遷
| 時期 | 主な変更内容 | 根拠 |
|---|---|---|
| 2023年3月期〜 | サステナビリティ情報開示の義務化(戦略・リスク・指標・目標) | 改正開示府令(2023年) |
| 2023年3月期〜 | 女性管理職比率・男性育休取得率・労働者の男女賃金格差の開示義務化 | 改正開示府令(2023年) |
| 2026年2月20日公布 | 経営戦略と連動した人材戦略・給与額の決定方針・平均年間給与の前年比増減率の義務化 | 改正開示府令(2026年2月20日施行) |
| 2026年3月期〜 | 人材育成方針・社内環境整備方針の明示義務化、多様性指標の開示強化 | 改正開示府令(2026年) |
| 2026年3月23日公表 | 人的資本可視化指針改訂版:4要素フレームワーク(ガバナンス・戦略・リスク管理・指標目標) | 内閣官房(2026年) |
| 2026年4月〜 | 女性活躍推進法改正:情報公表義務が301人以上→101人以上企業に拡大 | 女性活躍推進法改正(2026年) |
義務化の段階的拡大
記載場所の変更
従来は「従業員の状況」欄や「事業等のリスク」欄に分散していた人的資本情報が、「サステナビリティに関する考え方及び取組」欄に集約される。これにより、経営戦略・リスク・指標・目標の一貫したストーリーを示しやすくなる一方、開示量の増大への対応が求められる。
新たに義務化される3つの開示項目
2026年2月20日公布・施行の改正開示府令により、2026年3月期(2026年6月以降提出分)から新たに義務化される開示項目は以下の3つだ。金融庁は2025年12月25日に開示例を公表しており、記載の方向性を確認できる。
① 経営戦略と連動した人材戦略
単なる「人材育成方針」の列挙ではなく、中期経営計画や事業戦略との因果関係を明示した人材戦略の記載が求められる。「どの事業課題を解決するためにどのような人材を育てるのか」の論理構造が重要だ。
記載例の方向性: 「DX推進のためデータサイエンティストを2027年度末までに○名育成」「海外売上比率50%達成に向けグローバル人材を年間○名輩出」など、戦略目標と人材施策の連動を定量的に示す。
② 給与額の決定方針
報酬水準の決定に関する方針・プロセスを開示することが求められる。職務・成果・市場水準をどのように参照するかを示すことで、人材への投資意欲と報酬の公正性を投資家に伝えることが目的だ。
記載例の方向性: ジョブ型報酬体系の導入状況、業績連動比率、サーベイデータの活用方針など。単に「職種・成果・年功を総合的に判断」では開示の趣旨を満たさない。
③ 平均年間給与の前年比増減率
従来から開示されてきた「平均年間給与額」に加え、前年比の増減率の開示が新たに義務化される。賃上げの実績を定量的・継続的に示すことで、人材への再投資姿勢を可視化する。
記載例の方向性: 「2025年度 平均年間給与 ○○万円(前年比+○%)」のように実績値と増減率を明記。ベースアップ・定期昇給・賞与の内訳も示すとより説得力が増す。
金融庁はサステナビリティ情報開示に関する開示例を公表しており、上記3項目の具体的な記載イメージを確認できる。開示例の参照先: 金融庁 開示例 PDF
女性活躍推進法2026年4月改正との連動
2026年4月施行の女性活躍推進法改正は、有報の人的資本開示と直接連動する重要な変更を含む。最大の変更点は情報公表義務の対象範囲拡大だ。
対象企業の拡大(301人以上 → 101人以上)
これまで301人以上の企業に課されていた女性活躍に関する情報公表義務が、101人以上の企業にまで拡大される。対象企業数は大幅に増加し、中規模企業でも女性管理職比率・女性採用比率・男女賃金格差等の開示が求められる。
有価証券報告書提出義務のある上場企業はほぼ全社がこの要件に該当する。女性活躍推進法の情報公表データと有報の人的資本開示データの一元管理・整合が、開示の信頼性を左右する論点となっている。
有報との整合性確保
女性活躍推進法で公表する数値と有報で開示する数値の間でデータ不整合が生じると、投資家・ESG評価機関からの信頼性が著しく低下する。両法令の集計基準(正規・非正規の範囲、管理職の定義等)を統一した社内データ管理体制の構築が必要だ。
実務上の注意点: 女性活躍推進法の「管理職」定義と有報の「管理職」定義が異なる場合、それぞれの数値と定義を明示して開示することが求められる。
関連ガイド: 女性活躍推進法2026年改正 ─ 101人以上企業への影響と実務対応
制度変更の全体像を把握したところで、次に問うべきは「投資家はこれらの開示をどう評価するのか」だ。義務を満たすだけでは不十分であり、投資家が実際に求めるものを理解しなければ、開示の質は上がらない。
2. 投資家が求める開示とは ─ 認識ギャップと4要素フレームワーク
機関投資家が人的資本開示に期待する内容と、企業が実際に開示している内容の間には大きなギャップがある。三井住友信託銀行のガバナンスサーベイ2024では、投資家の**70%**が「人事戦略が企業価値向上につながるストーリー」に関心を持つ一方、開示している企業は47%にとどまる。
投資家の重視度 vs 企業の開示頻度
| 指標カテゴリ | 投資家重視度 | 企業開示率 | ギャップの傾向 |
|---|---|---|---|
| エンゲージメント・モチベーション | 高 | 低〜中 | 投資家が最重視するが企業開示率が低い |
| 女性管理職比率・ダイバーシティ | 高 | 高(義務) | 義務化で開示率向上、質・ストーリーが課題 |
| 研修投資額・育成費用 | 高 | 低 | 費用対効果の説明が求められる |
| 離職率・定着率 | 中〜高 | 中 | 業界比較・トレンドの開示が望まれる |
| 安全衛生・労働災害 | 低〜中 | 高 | 企業が力を入れるが投資家優先度は低い |
| 男性育休取得率 | 中 | 高(義務) | 取得日数・質の開示が次のステップ |
人的資本指標の認識ギャップ(概念図)
投資家が「使えない開示」と評価するパターン
- 定性的な記述のみ ─ 「人材を大切にする」「多様性を推進する」といった方針の羅列で、定量目標・実績が示されない。
- 単年度データの羅列 ─ トレンドや改善の軌跡が見えない。前年比・目標達成率がないため投資家が評価しにくい。
- 経営戦略との断絶 ─ 「事業戦略」欄と「人的資本」欄が別々に書かれており、因果関係が見えない。
- 業界比較なし ─ 自社の数値の高低が文脈なしに記載され、業界平均・競合比較がない。
人的資本可視化指針(改訂版)4要素フレームワーク
では、投資家が評価する「体系的な開示」はどのような構造を持つべきか。内閣官房が2022年に策定し2026年に改訂した人的資本可視化指針は、有価証券報告書の人的資本開示の「参照すべきフレームワーク」として金融庁も言及している。指針の活用は任意だが、有報との整合性を取ることで開示の質と一貫性が高まる。
可視化指針は人的資本に関連する19の開示項目を整理しており、そのうち「女性管理職比率」「男性育休取得率」「男女賃金格差」「障がい者雇用率」「労働安全衛生」の5項目は有報での開示が義務化されている。残りの14項目は任意だが、機関投資家が高く評価する「エンゲージメント」「人材育成投資額」「ダイバーシティ・スコアボード」なども含まれる。
2026年3月23日に公表された改訂版では、開示の構造としてガバナンス・戦略・リスク管理・指標目標の4要素フレームワークが明示された。これは気候変動開示(TCFD)と同じ構造であり、有報のサステナビリティ情報欄の記載要件とも完全に一致する。
人的資本可視化指針 4要素フレームワーク(2026年改訂版)
| 要素 | 記載すべき内容 | 有報での位置づけ |
|---|---|---|
| ガバナンス | 人的資本戦略の監督体制・取締役会の関与・CHRO設置状況・報酬連動の有無 | サステナビリティ情報欄(ガバナンス) |
| 戦略 | 経営戦略と連動した人材戦略・重要な人材課題・施策の全体像 | サステナビリティ情報欄(戦略)+ 人材育成方針(新義務) |
| リスク管理 | 人材に関するリスクの特定・評価・管理プロセス・他リスクとの統合 | サステナビリティ情報欄(リスク管理) |
| 指標と目標 | 選定指標の根拠・定量目標・実績・達成状況・前年比 | 多様性指標(義務)+ 平均年間給与増減率(新義務) |
有報サステナビリティ情報欄との対応関係
単に指標を開示するだけでなく、**「なぜその指標を選んだのか」「目標達成がどのような企業価値向上につながるのか」**のロジックを示すことが推奨される。詳細は人的資本可視化指針 2026年改訂版の解説を参照。
JPX人的資本100指数との関係
2025年に創設されたJPX人的資本100指数は、人的資本開示の充実度・戦略との連動性・定量データの質を評価軸に100社を選定する。指数構成銘柄への採用は企業価値向上の観点でも重要性が増している。
自社の指標が業界内でどの水準にあるかを把握することは、投資家が求める「文脈ある開示」の第一歩となる。以下の企業データで業界ベンチマークを確認したうえで、次のセクションで「どう書くか」の実践に進もう。
女性管理職比率
女性管理職比率が高い企業 · 2024年度 · 451社中5社掲載
有報の「従業員の状況」で開示が義務化された指標。2026年3月期からは人材戦略との関連づけた記述が求められる。
ファーストリテイリング
女性管理職比率(2024年8月期)
FAST RETAILING Integrated Report 2024 p.68
ダイバーシティ推進チームが中心となり、従業員満足度調査で課題を把握。ライフステージに合わせた働き方やキャリア形成支援、人事制度の改革、メンターサポートを推進し、2024年8月期の女性管理職比率は46.1%と前期比1.4ポイント上昇。
アシックス
女性管理職比率(2024年度実績)
統合報告書 2024年度 p.78
グローバル全体で2022年に女性管理職比率38.3%を達成し、50%到達に向けシニアマネジャーの女性比率を高める行動計画を策定中。管理職対象のアンコンシャスバイアス研修を実施し、インドネシアでは全従業員向けキャリア開発ワークショップでD&Iを開始。
男性育休取得率
男性育休取得率が高い企業 · 2024年度 · 310社中5社掲載
有報の記載事項として定着。育児介護休業法改正との連動で、企業の両立支援体制の実態が可視化される。
3. 価値創造ストーリーの書き方 ─ 先進企業に学ぶ
制度要件と投資家の期待を理解したうえで、最も重要な問いに移る。**「どう書けばいいのか」だ。改正開示府令の真の目的は「項目の充足」ではなく「人的資本投資が企業価値創造にどうつながるかの物語(ナラティブ)」**を示すことにある。項目を形式的に埋めるだけでは、投資家の評価は得られない。
価値創造ストーリーの構造
優れた人的資本開示は、以下の論理チェーンを有報内で一貫して示している。
先進企業の開示パターン ─ 価値創造ストーリーの4段階
| 段階 | 内容 | 投資家の着眼点 |
|---|---|---|
| 経営課題の特定 | 中期経営計画の成長目標(売上・シェア・DX進捗等)を達成するうえで、どのような人材・組織能力が不足しているかを明示する | 「課題認識」が戦略の起点になっているか |
| 人材課題の優先順位づけ | スキル不足・離職リスク・ダイバーシティ不足・管理職層の薄さ等を洗い出し、企業価値へのインパクト順に優先順位を示す | 全課題を平等に並べる開示は「戦略がない」とみなされる |
| 施策とKPIの対応関係 | 各人材課題に対応する施策(リスキリング・採用強化・評価制度改革等)と、その効果を測るKPI(研修時間・資格取得数・女性管理職比率・離職率等)を1対1で対応させる | KPIが施策と無関係に並ぶ開示は「戦略的整合性なし」と評価される |
| 給与決定方針との連動 | 今回の改正で義務化された「給与額の決定方針」を人材獲得・定着戦略と整合させる。ジョブ型・成果連動・賞与レンジ等の具体的方針が示されているか | 定性的記述に留まる企業と、具体的方針を示す企業で開示の質に差が生じている |
投資家が高評価する開示に共通する論理構造
参考文献: 梅宮由紀「価値創造ストーリーで魅せる人的資本開示」大和総研(2026年3月26日)
質の高い開示に共通する5つの要件
機関投資家・ESG評価機関のフィードバックをもとに、「質の高い人的資本開示」に共通する要件を整理する。
- 経営戦略→人材課題→施策→指標の一貫したロジック: 「中期経営計画でDX推進を掲げる→データ人材が不足→リスキリング投資を増額→2027年度までにDX人材1,000名育成→研修時間・資格取得数で進捗管理」という因果の連鎖を図や表で可視化する。投資家が「施策の合理性」を評価できる。
- 定量目標+実績のトレンド開示(3年以上): 単年度の数値だけでなく、目標値・前年比・中期的なトレンドをセットで開示する。「2023年度6%→2024年度8%→2025年度目標10%→2030年度目標20%」のような時系列を示すことで、改善の軌跡と将来コミットメントが伝わる。
- 業界比較・外部指標との対比: 自社数値を業界平均・競合他社・国際標準と比較することで、相対的な位置づけを明示する。くるみん認定・PRIDE指標・なでしこ銘柄などの第三者評価の取得状況も有効な比較軸となる。
- ネガティブデータの誠実な開示: 目標を達成できなかった指標や業界平均を下回る指標についても、原因分析と改善策とともに開示する企業が高評価を得ている。「良い数字だけを並べる」開示は投資家の信頼を損なう。
- 取締役会によるレビューの明示: 人的資本戦略が取締役会レベルで審議・監督されていることを示す。担当役員(CHRO等)の設置、取締役会への報告頻度、人的資本KPIの報酬連動などを具体的に記載することが望ましい。
以上の「何が変わるか」「投資家は何を見るか」「どう書くか」を踏まえ、最後に投資家が開示を評価する際の基準を整理する。
4. 投資家が評価する開示の基準
2026年3月期有報の人的資本開示に対して、投資家・ESG評価機関が着目するポイントを、改正開示府令の必須要件と質的評価基準の2層で整理する。
結論 ─ 形式的対応から経営戦略の言語化へ
本記事が繰り返し問うてきたのは「何を書けばいいのか」だ。改正開示府令の3項目を埋め、可視化指針の4要素に沿い、女性活躍推進法との整合を取る ─ これらは必要条件にすぎない。投資家が真に評価するのは、経営戦略を人材の言葉で語り直せているかどうかだ。人的資本開示とは、数字を並べる作業ではなく、自社の競争優位の源泉を投資家に伝える経営戦略の言語化である。チェックリストで形式的な漏れを防ぎつつも、「人材を通じてどう価値を創るか」というストーリーを有報に刻む ─ それが2026年3月期の開示で問われている本質だ。
▶出典(1件)
- 投資家と企業の人的資本開示に対する認識ギャップ(人的資本可視化指針(改訂版), p.7)
使用データ一覧
| コンテキスト | 年度 | 値 | 出典 |
|---|---|---|---|
投資家と企業の人的資本開示に対する認識ギャップ | 2026年 | 投資家86社を対象とした調査:中長期的な投資・財務戦略において人的資本投資を特に重視すべきと考える投資家が6割以上。投資家の関心事項:①人材戦略が企業価値向上につながるストーリー(投資家70% vs 企業47%にギャップ)、②人材戦略が影響を与える経営戦略・事業戦略・財務指標(投資家64%)、③人材戦略が影響を与える財務指標(投資家44% vs 企業4%に最大ギャップ)。 | 人的資本可視化指針(改訂版) p.7 |
計 1 件のデータが記事内で参照されています