1889年の創業から130年以上の時を経て、アサヒグループホールディングスは日本を代表する飲料メーカーから、世界有数のグローバル企業へと劇的な変貌を遂げた。2023年度の連結売上収益は2兆7,691億円[1]に達し、そのうち海外事業が占める割合は今や過半数を超える[2]。かつて国内市場で熾烈なシェア争いを繰り広げた「スーパードライ」の巨人は、今や欧州、オセアニア、東南アジアに強固な事業基盤を築き[3]、年間100億リットルを超える飲料を世界に届けている[4]。
この変革の原動力は何か。それは、単なるM&Aによる規模の拡大ではない。その根底には、企業としての存在意義を問い直し、グローバルな価値観を統合しようとする理念の進化がある。そして今、同社は「サステナビリティを経営の根幹に置き、社会課題の解決が利益の源となるビジネスモデル」[5]の構築という、壮大な挑戦の只中にいる。本稿では、アサヒグループの企業理念、ESG経営、そして人的資本経営の三位一体の戦略を深掘りし、同社が「おいしさと楽しさで、世界に輝きを(Make the world shine)」[6]というビジョンをいかにして実現しようとしているのか、その物語を解き明かす。
序章ー「スーパードライ」の遺産とグローバル化のジレンマ
アサヒの物語を語る上で、1987年に発売された「アサヒスーパードライ」の存在は欠かせない[7]。当時、国内ビール市場でシェア10%前後まで低迷していたアサヒビールにとって、それはまさに起死回生の一手だった。「辛口」という新たな価値提案は消費者の心を掴み、日本のビール史を塗り替える社会現象を巻き起こした。そして1997年、ついに長年のライバルを抜き去り、ビール年間シェアトップの座を獲得したのである[8]。この成功体験は、「挑戦と革新」というアサヒのDNAを強烈に刻み込み、その後の成長の原動力となった。
しかし、21世紀に入り、国内市場が成熟期を迎える中で、アサヒは新たな成長の活路を海外に求めざるを得なかった。2000年代後半から積極的なM&Aを展開し、特に2016年以降の欧州事業や2020年の豪州カールトン&ユナイテッドブルワリーズ(CUB)事業の買収は、同社を名実ともにグローバル企業へと押し上げた。その結果、グループの従業員約3万人のうち、半数以上が日本国外に在籍する[9]という、かつてない多様性に満ちた組織が生まれた。
だが、この急激なグローバル化は、新たなジレンマを生み出す。文化も歴史も異なる企業群を、いかにして一つのベクトルに向かわせるのか。「スーパードライ」の成功神話だけでは、ポーランドの醸造所の職人も、オーストラリアのマーケターも鼓舞することはできない。グループ全体の求心力となる、普遍的な理念が不可欠となったのだ。この経営課題への答えこそが、2019年1月に策定された「Asahi Group Philosophy(AGP)」[10]であった。
第1部 理念の進化ーAGPが灯す「グローカル」の道標
130年の思想を編み直すーAGP策定の背景
AGPの策定は、単なるスローガンの刷新ではなかった。それは、1889年の創業[11]以来、アサヒが培ってきた価値観を棚卸しし、グローバルな文脈で再定義する壮大なプロジェクトだった。AGPは「Mission(使命)」「Vision(ありたい姿)」「Values(価値観)」「Principles(行動指針)」の4つの要素で構成される[10]。
Missionとして掲げられたのは「期待を超えるおいしさ、楽しい生活文化の創造」[12]。これは、アサヒの事業の根幹が、単なる製品の提供ではなく、それを通じた顧客体験の創造にあることを示している。
Visionは「高付加価値ブランドを核として成長する“グローカルな価値創造企業”を目指す」[13]。ここで重要なのは「グローカル」という言葉だ。グローバルな視点で戦略を立てつつも、各地域の文化や嗜好を深く理解し、ローカルに根差した価値を創造する。買収によって手に入れた各国の強力なローカルブランドを尊重し、その価値を最大化するというアサヒの戦略が、この一言に凝縮されている。
そして、その実現を支えるのが3つのValues、「挑戦と革新」「最高の品質」「感動の共有」[14]である。これらは「スーパードライ」の成功を支えた精神そのものであり、アサヒの歴史の中で脈々と受け継がれてきたDNAを明文化したものと言える。
AGPは、世界中の従業員にとっての共通言語となった。CEOの勝木敦志氏は、2022年に世界30カ所の拠点を訪れ、約1,400人の従業員とタウンホールミーティングで直接対話した[15][16]。その中で、AGPが各地域の戦略や社員一人ひとりの行動に落とし込まれ、持続可能な事業作りへの意識を醸成している確かな手応えを感じたと語っている[17]。
理念の社会的価値を問うー「Make the world shine」への昇華
AGPの浸透が進む中、アサヒは2024年4月、次なる一手を打つ。新たなコーポレートステートメント「Make the world shine “おいしさと楽しさ”で、世界に輝きを」[6]の策定と、グループCI(コーポレートアイデンティティ)の再定義である[18]。これは、AGPが「何を為すか(What)」を定義するものであるとすれば、「なぜそれを為すのか(Why)」、つまり企業の社会的存在意義をより明確にする試みだった。
「世界を輝かせる」という言葉は、アサヒの事業インパクトが、顧客の喉の渇きを潤すだけに留まらないことを宣言している。それは、人と人とのつながりを生み、コミュニティを活性化させ、ひいては持続可能な社会の実現に貢献することを目指すという強い意志の表れだ。このステートメントは、後述するESG経営や人的資本経営の取り組みと深く結びつき、アサヒの価値創造ストーリー全体を貫く背骨となる。
新しいグループロゴには、地平線から昇る朝日をイメージした黄色の「サンライズ・アーク」が加えられた[19]。これは、アサヒ(朝日)という社名の原点に立ち返りながら、グローバル企業としての未来への希望と成長性を象徴している。理念を再構築し、その社会的価値を世界に向けて発信する。アサヒは今、AGPという羅針盤と「Make the world shine」という北極星を手に、本格的なグローバル経営という大海原へと漕ぎ出したのである。
第2部 ESG経営という羅針盤ー「プラネットポジティブ」への航海
アサヒグループの経営戦略において、今やESG(環境・社会・ガバナンス)は単なるCSR活動ではなく、事業成長と企業価値向上の根幹をなすものとして位置づけられている。「サステナビリティを経営の根幹に置き、社会課題の解決が利益の源となるビジネスモデルの構築を推し進めています」[20]という経営方針は、その決意を明確に示している。この方針転換の背景には、自然の恵みなくして事業が成り立たないという飲料メーカーとしての根源的な認識と、グローバルな投資家や消費者からの高まる要請がある。
野心的な環境目標「プラネットポジティブ」
アサヒの環境戦略の中核をなすのが、長期ビジョン「アサヒグループ環境ビジョン2050」[21]である。2023年2月に改定されたこのビジョン[22]は、ありたい姿として「プラネットポジティブ」[23]を掲げる。これは、事業活動による環境負荷をゼロにするだけでなく、生態系の保全・回復などを通じて地球環境にプラスの価値を創出するという、極めて野心的な目標だ。
気候変動への挑戦ー2040年ネットゼロへの前倒し
このビジョン実現に向けた最も象徴的な動きが、気候変動対策の加速だ。アサヒは2024年、バリューチェーン全体でのCO2排出量ネットゼロ目標を、従来の2050年から10年早い2040年に前倒しすることを決定した[24]。この目標は、科学的根拠に基づく目標設定イニシアチブ(SBTi)の認証取得も予定されている[25]。
目標達成の鍵を握るのが、グループ全体のCO2排出量の約9割を占めるScope3[26]、特に原料・資材調達(64%)[27]の削減である。自社の努力だけでは達成不可能なこの課題に対し、アサヒはサプライヤーとの共創を不可欠な戦略と位置づけている。
その中核を担うのが、2024年1月にシンガポールで本格稼働したグローバル調達会社「Asahi Global Procurement Pte. Ltd. (AGPRO)」[28]だ。AGPROは、グループ全体の調達機能を統合し、スケールメリットを活かしたコスト削減(年間1億ドル以上を見込む[29])だけでなく、サプライヤーとの連携によるサステナビリティ推進のハブとしての役割を期待されている。Scope3排出量の測定方法をグループ全体で統一し、サプライヤーへの働きかけを強化することで、野心的な目標達成への道筋を描いている[30]。
自社排出分であるScope1,2についても、2030年までに2019年比で70%削減[31]という高い目標を掲げ、再生可能エネルギーへの転換をグローバルで加速させている。2022年時点で再生可能エネルギー使用率は46%[32]に達しており、2040年までの100%達成[32]を目指す。
自然資本との共生ー水、容器、農産物原料
アサヒの事業は、清冽な水、豊かな土壌で育つ大麦やホップといった自然資本に深く依存している。そのため、同社はTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)のフレームワークも活用し、自然への依存と影響を分析している[33]。
- 水資源: グローバルな生産拠点で水リスク評価を実施し[34]、水使用量原単位の削減(グローバル平均3.2m³/kl[35])や、水リスクの高い流域での課題改善に取り組む[36]。
- 容器包装: 2030年までにPETボトルの100%をリサイクル・バイオ由来素材などへ切り替える[37]ことを目指す。2024年時点での使用率は37%[38]であり、目標達成には更なる技術革新とサプライヤーとの連携が不可欠だ。豪州では競合他社とも連携し、PETリサイクル工場を運営する合弁会社を設立する[39]など、業界全体でのエコシステム構築にも乗り出している。
- 農産物原料: 2030年までに主要原料である大麦とコーヒーを持続可能な原料調達100%とすることを目標に掲げる[40]。さらに、ビール製造の副産物である酵母細胞壁を農業資材として活用し、農産物の収穫量増加に貢献するというユニークな取り組みも行っている。この施策による社会インパクトを金額換算する試みでは、トマトで64.9億円[41]、みかんで16.2億円[42]という試算結果も出ており、事業活動と社会貢献の好循環を生み出している。
社会的責任の再定義ー「スマートドリンキング」という価値提案
酒類を主力事業とする企業として、「責任ある飲酒」の推進は避けて通れない社会的責務である。アサヒはこの課題に対し、単なる注意喚起に留まらない、積極的な価値提案で応えようとしている。それが「スマートドリンキング(スマドリ)」の思想だ。お酒を飲む人・飲まない人、飲める人・飲めない人、飲みたい時・飲めない時、それぞれの状況や体質に合わせて、多様な選択肢を提供することで、誰もが心地よく楽しめる飲用文化を創造することを目指す。
この思想を具現化するのが、ノンアルコール・低アルコール飲料(アルコール度数3.5%以下)のポートフォリオ強化である。アサヒは、これらの商品の販売量構成比を2030年までに20%以上[43]に高めるという高い目標を掲げている。2024年時点での実績は12.8%[43]であり、目標達成に向けた取り組みが加速している。
その象徴的な商品が、2024年に全国発売されたアルコール分0.00%の『アサヒゼロ』[44]や、アルコール分3.5%の『アサヒスーパードライ ドライクリスタル』[45]である。これらは、従来の「我慢」の代替品ではなく、おいしさを追求した積極的な選択肢として開発された。特に日本では、飲酒習慣のない層が人口の過半数を占める約5,000万人[46]に上るという推計もあり、この巨大な市場機会を捉える戦略でもある。
ESGを支えるガバナンスの進化
これらの野心的なESG戦略を実効性のあるものにするためには、強固なガバナンス体制が不可欠だ。アサヒはグローバル化の進展に合わせ、ガバナンス体制の改革を断行してきた。
2024年には、Group CxO(最高責任者)体制を導入し、Finance、People、Growth、Sustainability、R&Dの5分野でグローバルな意思決定を迅速化[47]。CEOの諮問機関として各地域のCEOも参加する「Executive Committee(ExCom)」を設置した[48]。これにより、地域ごとの個別最適ではなく、グループ全体の最適を追求する体制が整った。
サステナビリティに関しては、CEO自らが委員長を務める「グローバルサステナビリティ委員会」[49]が執行をリードし、2023年には取締役会の諮問機関として「サステナビリティ委員会」を設置[50]。執行と監督の両輪でサステナビリティを経営に統合する体制を構築した。さらに、2025年3月には指名委員会等設置会社への移行[51]も果たし、監督機能の独立性と透明性を一層高めている。
理念を掲げ、ESGという羅針盤で航路を定める。しかし、巨大な船を動かすのは「人」である。アサヒの次なる挑戦は、多様なクルーを「One Asahi」としてまとめ上げ、そのポテンシャルを最大限に引き出すことにあった。
第3部 人的資本経営ー「One Asahi」を牽引するグローバルタレントの育成
売上収益の海外比率が50%を超え[2]、約3万人の従業員の半数以上が海外に在籍する[52]アサヒグループにとって、人的資本の高度化はもはや選択肢ではなく、持続的成長のための絶対条件である。文化や言語、価値観の異なる多様な人材をいかにして惹きつけ、育成し、一つの目標に向かわせるか。その答えとして、アサヒは「ありたい企業風土の醸成」「継続的な経営者人材の育成」「必要となるケイパビリティの獲得」という3つの柱[53]からなる人的資本戦略を推進している。
ありたい企業風土の醸成ーエンゲージメントとDE&I
アサヒが目指すのは、社員が心身ともに健康で、安心して挑戦でき、互いの多様性を尊重し合えるインクルーシブな企業風土だ。その進捗を測る重要な指標が「持続可能なエンゲージメントサーベイ」のスコアである。2024年のスコアは80[54]となり、グローバルな食品・飲料企業と同等の水準を目指している。
特に注目すべきは、カテゴリー別のスコア分析とその対策だ。「戦略・方向性」のスコアが87%[55]と高い一方、「業務効率性」は46%[56]と課題が明確になった。これに対し、同社は単に結果を報告するだけでなく、スコアの低い部門へのヒアリングや権限基準の見直しなど、具体的な改善アクションプランを策定・実行している。
企業風土醸成のキードライバーと位置づけられているのが、ダイバーシティ、エクイティ&インクルージョン(DE&I)だ。特にジェンダーダイバーシティにおいては、2030年までに経営層における女性比率を40%以上[57]にするという高い目標を掲げている。2024年時点での実績は24%[58]であり、目標達成に向けたパイプライン強化が急務となっている。2022年の国際女性デーに開催されたオンラインイベント「Break the Bias」には1,700人以上の社員が参加する[59]など、意識改革に向けた取り組みも活発だ。
また、2023年には「多文化性(Multiculturalism)」の取り組みを開始[60]。多様な事業や風土を尊重し、インクルーシブな文化を醸成することを目指している。これは、M&Aで拡大したグループの歴史を強みに変えようとする戦略的な動きである。
グローバルリーダーの育成と人材流動化
「総和を超えた企業価値」[61]を生み出すためには、国や地域を越えて活躍できるグローバルリーダーの育成が不可欠だ。アサヒはそのための仕組みを着々と整備している。
まず、リーダーに求められる資質を「Shapes Culture(文化を形成する)」「Strategic Foresight(戦略的先見性)」「Drives Positive Impact(ポジティブな影響を推進する)」の3つの柱で定義した「アサヒグローバルリーダーシップコンピテンシーモデル」[62]を導入。これに基づき、次世代経営者候補を選抜・育成する「グローバル・リーダーシップ・ディベロップメント・プログラム」を実施し、2023年には新たに34名が参加した[63]。
さらに重要なのが、人材の流動性を高める取り組みだ。サイロ化しがちな地域組織の壁を壊し、知見やベストプラクティスを共有するため、RHQ(地域統括本部)間の人材異動を積極的に推進。2024年には約40人の異動が実施された[64]。また、2023年に開始された「グローバル・タレントエクスチェンジプログラム」では、11人の社員が数週間から3ヶ月間、他地域のRHQに滞在し、相互理解を深めた[65]。
こうした動きは、社員にグローバルなキャリアパスを提示し、モチベーションを高める効果も生んでいる。その象徴的なエピソードが、前述のグローバル調達会社AGPRO設立時の人材公募だ。世界中のグループ社員から57名の応募があり[66]、最終的に多様な国籍の25名が選抜された[67]。これは、アサヒが真のグローバル企業として、世界中の才能を惹きつけ、活躍の場を提供できる組織へと変貌しつつあることを示している。
「学習する組織」への変革
変化の激しい時代において、組織が持続的に成長するためには、社員一人ひとりが学び続ける「学習する組織」であることが不可欠だ。アサヒはこの変革を加速させるため、グローバルな学習プラットフォームの構築に力を入れている。
2023年には、世界中の社員がつながり、互いに学び合える「Global Learning Platform」の第1フェーズを立ち上げた[68]。また、社員が自発的に学びのコミュニティを形成する「CHRO Learning Community」も開設[69]。2023年に開催されたセッションには、延べ1,350名の社員が参加した[70]。
DX(デジタルトランスフォーメーション)の推進においても、人材育成は核となる。アサヒはDXを単なるツール導入ではなく「ビジネストランスフォーメーション(BX)」[71]と定義し、全社員がデータを活用できる「デジタルネイティブ組織」への変革を目指している[72]。その一環として、アサヒグループジャパンでは全社員の6割にあたる約9,000人がデータ活用入門講座を受講済みである[73]。
理念を刷新し、ESGを羅針盤とし、多様な人材が躍動する組織を築く。アサヒの壮大な変革は、いよいよ事業戦略と財務成果へと結実していく。
第4部 戦略と財務の統合ー「総和を超えた価値」への挑戦
企業理念、ESG、人的資本への投資は、それ自体が目的ではない。最終的には事業の成長と財務的な価値向上に結びついてこそ、持続可能な経営が実現する。アサヒグループは今、これらの非財務資本を競争優位の源泉とし、「各事業の総和を超えた企業価値」[61]をいかにして生み出すかという、最も重要な局面に立っている。
プレミアム化戦略の果実ーブランド価値が収益を牽引
アサヒの成長戦略の核心は「プレミアム化」である。価格競争から脱却し、高い付加価値を持つブランドを育成することで、収益性を高める。その牽引役が、『Asahi Super Dry』『Peroni Nastro Azzurro』など5つのグローバルブランドだ[74]。これらのブランドの販売数量は、2020年から2023年にかけて年平均成長率(CAGR)+9%という目覚ましい成長を遂げている[75]。
この成功の裏には、緻密なグローバルマーケティング戦略がある。その最たる例が、2023年の「ラグビーワールドカップ フランス大会」への協賛だ[76]。アジア企業として初の最高位スポンサーとなり、『Asahi Super Dry』のブランド認知度を飛躍的に高めた。大会期間中の第3四半期には、販売数量が前年同期比60%増を記録[77]し、スタジアムでのビール販売量は過去最高を1.5倍も上回った[78]。
この成功は、単なる広告効果だけではない。大会開幕日の気温が35℃を超える猛暑[79]に見舞われた際、フランス、欧州、日本のチームが連携し、数十台の冷蔵設備を緊急手配してビールの品質を守り抜いた[80]というエピソードは、まさに「One Asahi」としての実行力を象徴している。
2024年からは、『Peroni Nastro Azzurro 0.0%』がF1チーム「Scuderia Ferrari」とグローバルパートナーシップを締結[81]。こうした世界的なスポーツプラットフォームを活用した投資は、ブランドのプレミアムイメージを確立し、2024年のグループ全体の単価上昇率+2.6%[82]に大きく貢献している。
BAC戦略とイノベーションの加速
アサヒのもう一つの成長エンジンが、BAC(Beer Adjacent Categories)戦略である。これは、ノンアルコール飲料、RTD(Ready To Drink)、成人向け清涼飲料など、ビールに隣接する成長領域を積極的に開拓する戦略だ[83]。酒類と飲料の両事業で培った技術とノウハウを持つアサヒならではの強みを活かし、「マルチビバレッジ戦略」[84]を推進している。
2024年に数量限定で発売され、大きな話題を呼んだ『未来のレモンサワー』[85]は、その象徴だ。本物のレモンスライスを封入するという世界初の試みは、RTD市場に新たな付加価値をもたらし、2025年には全国展開が計画されている[86]。こうしたイノベーションが奏功し、2024年のBAC事業の販売数量は前年比+13%と力強く成長した[87]。
財務戦略の大転換ー資本効率を新たな経営指標へ
ESGや人的資本への投資、そしてプレミアム化やBACへの戦略投資を支えるのが、強固な財務基盤である。CUB事業買収後、アサヒは財務健全性の回復を最優先課題とし、有利子負債の削減に努めてきた。その結果、Net Debt/EBITDA倍率は2024年末には目標の3倍程度を大きく下回る2.49倍まで改善[88]。フリー・キャッシュ・フローも3年平均で2,530億円[89]と、目標の2,000億円[90]を大きく上回る創出力を見せた。
財務基盤の安定を背景に、アサヒは2025年2月、次なる成長ステージに向けた新たな財務方針を発表した[91]。これは、単なる規模や利益の成長だけでなく、「資本効率」を経営の中心に据えるという、大きなパラダイムシフトであった。
この転換の背景には、投資家との対話がある。2024年には100回近くに及ぶ対話[92]を重ねる中で、グローバルな競合他社と比較した際の資本効率の低さが課題として浮き彫りになった。2024年末のPBR(株価純資産倍率)は1倍を割り込んでおり[93]、市場からの評価は厳しいものがあった。
これに応える形で、アサヒは2030年までの中長期目標として、新たにROE(自己資本利益率)11%以上[94]、ROIC(投下資本利益率)10%以上[95]という具体的な数値を設定。これは、同社が試算する株主資本コスト(約8%)[96]やWACC(約5.5〜6%)[97]を大きく上回る水準であり、資本コストを意識した価値創造への強いコミットメントを示している。
株主への約束ーDOE 4%と成長投資の両立
新たな財務方針は、株主還元の強化という形で具体化されている。2025年度までに目指していた配当性向40%の目標を前倒しで達成[98]した上で、今後はDOE(自己資本配当率)4%以上[99]を目指した累進配当と、機動的な自己株式取得を組み合わせる方針を打ち出した。特に、2020年の公募増資分に相当する約15,000万株[100]の早期買い戻しを目指すことは、株主への強力なメッセージとなる。
重要なのは、これが単なる還元強化ではないことだ。アサヒは今後3年間、毎期1,700〜2,000億円規模のオーガニック成長投資[101]を継続する計画であり、M&Aの選択肢も維持している[102]。資本効率の向上と株主還元の充実、そして未来への成長投資。この3つを高いレベルで両立させるという、極めて高度な経営の舵取りに挑んでいるのである。
結論ー乾杯の先に描く、持続可能な輝き
130年以上の歴史を持つアサヒグループの物語は、今、最もエキサイティングな章に差し掛かっている。「スーパードライ」という偉大な成功体験を乗り越え、グローバルなM&Aを経て、同社は自らの存在意義を「Asahi Group Philosophy」として再定義した。そして今、「Make the world shine」という壮大なビジョンを掲げ、ESGと人的資本を両輪に、サステナビリティと経営の統合という前人未到の航海に乗り出している。
その航路は平坦ではない。PBR1倍割れという市場の厳しい評価[93]は、資本効率改善への道がまだ途上であることを示している。買収によって多様化した組織を、真の意味で「One Asahi」として機能させるには、日本式と欧米式の経営スタイルを融合させる[103]という困難な挑戦が続く。
しかし、アサヒの挑戦は、単なる一企業の成長物語に留まらない。それは、グローバル化の荒波の中で日本企業がいかにして変革を遂げ、新たな競争優位を築くことができるかという一つのモデルケースである。そして何よりも、事業活動を通じて気候変動や人権、健康といった社会課題の解決に貢献し、財務的価値と社会的価値を同時に向上させるという、21世紀の資本主義における企業の理想像を追求する壮大な実験でもある。
アサヒが世界に届ける一杯の飲料。その「乾杯」の先に、人と社会、そして地球が持続可能に輝く未来を描くことができるのか。その挑戦から、私たちは目を離すことができない。
▶出典(103件)
- 2023年度 売上収益(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.5)
- 売上収益の海外比率(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.17)
- 地域ポートフォリオの拡大状況(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.25)
- 年間酒類及び飲料提供量(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.5)
- アサヒグループの経営方針(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.4)
- 新コーポレートステートメントの策定(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.18)
- 世界初の辛口生ビール誕生(Environment | Sustainability - ASAHI GROUP HOLDINGS)
- スーパードライによる逆転劇(Environment | Sustainability - ASAHI GROUP HOLDINGS)
- 海外従業員比率(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.15)
- Asahi Group Philosophy策定時期(Environment | Sustainability - ASAHI GROUP HOLDINGS)
- 大阪麦酒会社として創立(Environment | Sustainability - ASAHI GROUP HOLDINGS)
- アサヒグループのミッション(社会における使命・存在価値)(Asahi Group Integrated Report, p.5)
- アサヒグループのビジョン(ありたい姿・目指す姿)(Asahi Group Integrated Report, p.5)
- アサヒグループのバリュー(価値観)(Asahi Group Integrated Report, p.5)
- 2022年のCEOによる事業所・工場訪問数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.15)
- CEOによるタウンホールミーティングの参加人数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.20)
- アサヒグループ理念(AGP)の浸透(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.15)
- グループ全体のコーポレートアイデンティティの再定義(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.14)
- 新たなグループコーポレートロゴの策定(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.14)
- アサヒグループの価値創造の根幹となるビジョン(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.21)
- アサヒグループの長期環境ビジョン(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.76)
- 「アサヒグループ環境ビジョン2050」の改定(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.24)
- 環境負荷ゼロと地球環境への価値最大化を目指す(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.54)
- 脱炭素目標達成期限の2040年への前倒し修正(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.39)
- ネットゼロ目標のSBTi認証取得予定(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.76)
- 当社グループのGHG排出量におけるScope3の割合(Asahi Group Integrated Report, p.32)
- バリューチェーンにおける原料・資材のCO2排出割合(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.53)
- AGPROの運営開始(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.58)
- AGPROによる年間コスト削減効果の見込み(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.12)
- AGPROが取り組むサステナビリティの注力領域(Asahi Group Integrated Report, p.32)
- CO2排出量削減目標(前年比)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.50)
- 再生可能エネルギー使用率(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.6)
- TNFDフレームワークに基づいたLEAP分析の実施(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.73)
- 水資源リスク評価の対象生産拠点数(日本)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.74)
- 優先地域にある工場の水使用量原単位(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.74)
- 水資源に関する2030年目標の策定(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.77)
- 非財務価値の向上目標(PETボトル)(Asahi Group Integrated Report, p.20)
- 2024年度 PETボトルにおけるリサイクル・バイオ素材使用率(Asahi Group Integrated Report, p.4)
- 豪州におけるPETボトルリサイクル事業(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.76)
- 農産物原料に関する2030年目標の策定(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.77)
- 社会インパクト金額(野菜・畑作:トマト)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.41)
- 社会インパクト金額(果樹:みかん)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.41)
- 2024年度 ノン・低アルコール飲料販売量構成比(Asahi Group Integrated Report, p.4)
- 『アサヒゼロ』の全国展開(Asahi Group Integrated Report, p.27)
- アサヒスーパードライ ドライクリスタルのアルコール分(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.51)
- 日本の20歳以上の人口における非日常的飲酒者の推計(Asahi Group Integrated Report, p.9)
- グローバル経営強化に向けたGroup CxOの新設(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.11)
- Executive Committeeの設置(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.7)
- グローバルサステナビリティ委員会の委員長(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.70)
- サステナビリティ委員会の設置(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.14)
- 機関設計の変更時期(Asahi Group Integrated Report, p.10)
- グループ従業員数(概数)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.15)
- 人的資本の高度化に向けた3つのアプローチ(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.46)
- 2024年度 持続可能なエンゲージメントサーベイスコア(Asahi Group Integrated Report, p.4)
- 2023年度 グローバルエンゲージメントサーベイスコア(戦略・方向性)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.47)
- 2023年度 グローバルエンゲージメントサーベイスコア(業務効率性)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.47)
- 経営層における女性比率目標(2030年)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.48)
- 2024年度 経営層における女性比率(Asahi Group Integrated Report, p.4)
- 国際女性デー「Break the Bias」イベント参加者数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.44)
- 多文化性(Multiculturalism)の取り組み開始(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.48)
- アサヒグループの価値創造の目標(Asahi Group Integrated Report, p.21)
- アサヒグローバルリーダーシップコンピテンシーモデルの構成(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.45)
- 次世代経営者育成プログラムの新規参加者数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.49)
- 2024年のRHQ間での人材異動数(Asahi Group Integrated Report, p.10)
- グローバル・タレントエクスチェンジプログラムの参加者数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.48)
- 新設の調達会社における社内公募の応募者数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.49)
- 新設の調達会社における社内公募の選抜人数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.49)
- Global Learning Platformの立ち上げ(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.48)
- CHRO Learning Communityの開設(2023年)(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2023, p.44)
- CHRO Learning Communityのセッション参加者数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.48)
- DX戦略の定義と位置付け(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.42)
- 組織イノベーションの目標(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.42)
- アサヒグループジャパン(株)のデータ活用入門講座受講率(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.43)
- 主要なグローバルブランドの数(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.13)
- グローバル5ブランドの販売数量CAGR(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.3)
- ラグビーワールドカップ2023でのスポンサーシップ(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.62)
- 2023年第3四半期 スーパードライ販売数量増(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.66)
- スタジアム内での過去最高販売記録更新(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.66)
- 2023年9月8日のフランス大会開幕日の気温(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.62)
- 猛暑対応のための冷蔵設備緊急手配(ASAHI GROUP INTEGRATED REPORT 2024, p.62)
- Scuderia Ferrariとのグローバル・パートナーシップ締結(Asahi Group Integrated Report, p.28)
- 2024年度 単価上昇率(前年比)(Asahi Group Integrated Report, p.16)
- ビール隣接カテゴリー(BAC)の成長追求(Asahi Group Integrated Report, p.9)
- 新たな収益の柱を育てる戦略の推進(Asahi Group Integrated Report, p.12)
- 『未来のレモンサワー』の限定販売(Asahi Group Integrated Report, p.27)
- 『未来のレモンサワー』の全国展開計画(Asahi Group Integrated Report, p.27)
- 2024年度BAC事業の販売数量成長率(Asahi Group Integrated Report, p.12)
- 財務健全性指標(Net Debt/EBITDA)(Asahi Group Integrated Report, p.19)
- 3年間平均フリー・キャッシュ・フロー実績(Asahi Group Integrated Report, p.16)
- 3年間平均フリー・キャッシュ・フロー目標(Asahi Group Integrated Report, p.16)
- 中長期経営方針のガイドライン更新(Asahi Group Integrated Report, p.13)
- 2024年度の投資家との対話回数(Asahi Group Integrated Report, p.13)
- 2024年度末のPBR(株価純資産倍率)(Asahi Group Integrated Report, p.17)
- 2024年度 ROE(調整後)(Asahi Group Integrated Report, p.4)
- 2024年度のROIC実績(Asahi Group Integrated Report, p.17)
- 株主資本コスト(試算)(Asahi Group Integrated Report, p.14)
- WACC(試算)(Asahi Group Integrated Report, p.14)
- 2024年度 配当性向(調整後)(Asahi Group Integrated Report, p.4)
- 株主還元方針(DOE目標)(Asahi Group Integrated Report, p.19)
- 自己株式の買い戻し目標(Asahi Group Integrated Report, p.14)
- オーガニック成長投資(今後3年間)(Asahi Group Integrated Report, p.14)
- インオーガニック成長投資(M&A)方針(Asahi Group Integrated Report, p.19)
- 合理的かつアジャイルな意思決定体制の構築(Asahi Group Integrated Report, p.9)
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